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平成10年から法話図書館で連載された長谷川正徳(はせがわ・しょうとく)先生のちょっといい話 ブログ版です。携帯電話からも見られます。
2008.05.28 Wednesday
第57話 精神の峻厳さを忘れた若者たち
この頃、総理府が発表した「科学技術と社会に関する世論調査」によると、18才から29才までの青年で、易や占いの本を読んだことがある人の割合は78%にのぼっている。
ところが、占いを「かなり当たると思う」のはわずか2%、ここに占いが絶対だと信じてはいけない姿が表れているが、見過ごすことのできないのは「ある程度は当たると思う」が41%で、年令の若い人ほどその割合が高いという点である。 またこれは別のNHKの調査であるが、「お守りやお札など、魔よけや縁起ものを身のまわりにおいている」と答えた若者は36.2%あって、その数は次第に増えつつあるとみられるというのである。 いまひとつ、最近の若者の間に新オカルトブームなる現象が見られ、オカルト月刊雑誌の発行部数がぐんぐん増えているという。 こういう傾向というものは、ほんとうの宗教が盛んになるということとは全く違うのであって、一つの遊びのファッション風潮に過ぎないといわねばならない。 若者にとって真に大事なことは、自分の心を厳しく鍛え、自身を変革する努力を通して、この現実の中で、希望と勇気をもって、積極的に生きていくというほんとうの宗教を人生観として持つことでなければならない。 自己自身の全存在を賭けないで、安易に奇跡や特効薬を得られるオカルトや超能力を売りものにする疑似宗教に若者が凝るという風潮は決して健全なものとは申されない。 若者よ、格闘しながら真実を追求する精神の厳しさに生きよ。 2008.05.21 Wednesday
第56話 いのちの重さを知らぬ若者
この頃の若者による暴力沙汰、ことに殺人事件の多いのには、心を暗くさせられます。
青少年の死に対する感覚が、この頃明らかに変わってきているようです。 殺人が多いと同じように自殺も増えています。 他人の死について深く受けとめない分、自分の死についても深刻に考えようとしない。 要するに今の若者には、生と死について認識が非常に弱いということができます。 その原因についてある評論家は、テレビや劇画にあふれる暴力シーン、殺人シーンの刺激のはげしさが若者の死に対する感覚をマヒさせてしまうのだと指摘します。 ある調査によりますと、テレビ画面にでる"死者"は一週間で約600人だというのですから、死に対する無感動、無関心が一般化するのは当たり前でしょう。 それから考えられるのは、この頃の病人や老人は家庭で家族にみとられながら死んでゆくということがなくなったということです。 老人ホームで死んでゆく、病院で死を迎える。 だから人間の死の厳粛さ、その重さ、そして残酷さを今の若者は目で見ることがない。 したがって、生と死を殆ど考えようとせず、重いはずの死が、実に軽い意味しかもたなくなってしまっているのです。 若者にとりまく現代の環境は、生命の尊厳や死の重大性を否定する方向に向かっていることは確かです。このことは実に恐ろしく危険な社会風潮であります。 人生の尊さ、人間の命というものが、いかに大切なものであるかということを肝に銘じて知るためには、どうしても若者に間に宗教心がひろまらなければならぬと思うのです。 2008.05.14 Wednesday
第55話 東海大学安楽死事件で問われるもの
神奈川県の東海大学医学部付属病院で昨年4月(※)、元内科助手の医師が、末期ガンの患者に薬物を注射し、安楽死させたとされる事件で横浜地検は去る7月2日、この医師を殺人罪で起訴した。
安楽死問題で医師が起訴されたのは始めてであり、終末期医療をめぐってさまざまな問題が指摘されている折柄、裁判の行方が注目される。 昨年の日本人の死亡数は83万人。そのうち、ガンによる死亡は27%の22万人余となっている。 しかもガン死亡は年々増加する一方である。 もちろんガン予防や治療に全力をあげねばならぬが、今日の状況ではいつなんどき、この自分自身がガンに冒され、死の転起をみないにも限らぬ。 この頃やかましいリビング・ウィル(生者の意志)を健康なときにはっきりしたためておく必要を痛感させられる。先師のお言葉に 「先ず臨終のことをならうて後に他事をならうべし」 とあるが、現代的には他ならぬこの己の死を、ことに死に臨んだときの処置についてはっきり書面に書いておけという意味なのではないか。 東海大学の場合でも、患者自身が安楽死について何の意志もあらわしていなかったということが起訴の重大な理由になっている。 いづれにしても人は己の死と対面することによって、ひるがえって今の命を充実させることが出来るという、仏の教えの真髄をかみしめなければならない。 東海大学で起きた事件は、医療と家族の在り方、そして自己自身の生と死に重い問いを突きつけている。 【東海大学安楽死事件】 ※ このお話は、1992年に書かれたものです。 2008.05.07 Wednesday
第54話 幸福には前にはなくいつも背後にある
昔、あるところに一本のローソクの灯があった。
それがある時、光というものは大変明るいものだと聞いた。 「ああ、わしはその光なるものにめぐり逢いたい。 わしの周囲はどちらを向いても闇ばかりだ」 こういって、灯は光を探し求めて歩き廻った。 が、どこにも光なるものを見つけることはできなかった。 だんだんと灯は燃え尽くして、いまや消えかかろうとした。 そしてゆらめきだした。 そこへ、一陣の風が吹いてきて、あわや灯は消えようとした。 その刹那「あっ、わしが光りであった!」と叫んだ。 そして消えた。 こういう寓話があります。 光はどこにあるかと探し求めていた自分自身が実は光そのものであったのです。 誠に私どもは日夜に光りを求めて歩きまわっています。 幸福を探しまわっています。 しかしそのように直接に、まともに追い求めていてはいつまでたってもつかむことはできないのです。 光を、幸福を探し求めることを止めるとき、その刹那、自分自身が光りであり、幸福そのものであったことがわかるのです。 幸福は即座に自分の足元にあったことを知るのであります。 どんなに苦労多い世渡りでも、どんなに淋しい生活でも、そこに幸福と感謝とがじゅうぶんに感じられるのであります。 不平に思ったのは自分の贅沢でした。 一日の生、これこそ大きな感謝でありました。 一日の生活、これこそ大きな恵みものの中に暮らした一日でありました。 わが力で得たのではない命を一日享受し、わが力で暮らせたのではない一日を送ったこと、これ大きな幸福であります。
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